YOSHIKI

YOSHIKI

YOSHIKI

名前      林 佳樹

生年月日 1965/11/20

出身   千葉県館山市

血液型  XだけどB

職業   ミュージシャン

     音楽プロデューサー   実業家

楽器         ドラム  ピアノ

                    ギター        ベース     トランペット

 

 

 

 

XJAPANのYOSHIKIさんMAMAAWARDSでの演奏、コメントでENYPENのJも胸に手を当てて感動XJAPANのYOSHIKIさんMAMAAWARDSでの演奏、コメントでENYPENのJも胸に手を当てて感動 YOSH...

 

YOSHIKI誕生

 

1965年11月20日に、千葉県館山市の老舗呉服店を営む家庭の2人兄弟の長男として生まれる。

父はJAZZ PIANO、母は三味線、叔母は琴の演奏を嗜むなど音楽的環境で育つ。

また、父は先代から家業を継ぐまでプロのタップ・ダンサーであった。

5つ歳の離れた弟は元俳優の光樹さん。

 

YOSHIKI 幼少期

 

幼少期は仕事で忙しい両親に代わり、主に家政婦が兄弟の面倒を見ていたらしいです。

 

4歳になると自宅そばのピアノ教室でクラシック・ピアノのレッスンを受け始める。

日頃から父が購入するクラシックのレコードを好んで聴き、8歳の時にシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」と

ベートーベンの交響曲第5番ハ短調「運命」が収録されたレコードを初めて自分で購入した。

 

病弱で小児喘息を患っていたので、小学校中学年になるまで頻繁に入退院を繰り返していました。

 

病室では父が見舞いに持参した子供向けの偉人伝を愛読し、とりわけ若くして難聴となりながらも数々の名曲を残したベートーヴェンの苦難の人生に対して強い興味を抱いた。

 

9歳頃からピアノで作曲をしていました。

 

スポンサーリンク

 

10歳から14歳まで学校のブラスバンド部でトランペットを担当した。(ToshI も一緒)

 

また中学から高校まではブラスバンド部と並行してサッカー部にも所属しており、司令塔のミッドフィールダーのポジションを担当していた

毎年、誕生日には楽器を買い与えられることが恒例で、トランペットを始めたのも10歳の誕生日に父から買ってもらったことがきっかけであったが、その翌年の8月に父を亡くした。34歳の若さであった。

 

KISSとの出会い ~ DRUM~

 

よく行くレコード店で偶然目にしたジャケットに惹かれてKISS の『LOVE GUN』購入。

母と弟と行ったKISS の『ロックンロール・オーバー・ツアー』の日本武道館公演をきっかけにROCK に魅了され、11歳でDRUM を始めた。

ちなみに、12歳でギターも始めたが、細かい作業が性に合わず早々に手を引いた。

 

11歳で初めての4人組バンド「DYNAMITE」(メンバーは小学校の同級生2人と幼馴染みでギターが弾けたToshl)を結成。

 

当初はドラムとボーカルを担当し、近所の貸しスタジオでキッスの楽曲を練習した。

声変わりが遅く高声しか出すことができなかったため、中学校に進学後、新たに同級生をボーカルに迎え、ドラムスに専念する

バンド名も「NOISE」に改めレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの楽曲を演奏した。

 

より複雑なリズムを叩くため、14歳の誕生日に母に頼んでダブル・ベースのドラムセットを手に入れ、同じくダブル・ベースを使うレインボーを手本に練習を積んだ

 

中学校の体育館で開かれたイベントで初めてのステージにたつ。

高校進学後もNOISEとしてレッド・ツェッペリンやUFO、レインボーなどの楽曲を学校の文化祭などで演奏した

1982年の夏、大学受験に専念するメンバーが離脱したNOISEを解散。

 

X 結成!!

 

当時はアイアン・メイデンに感化されており、ボーカルに転向したToshlと他校の生徒によるツインリードギター編成で、よりハードなロックを指向したバンド「X」(現在のX JAPAN)を新たに結成する

 

Xでは既存の楽曲の演奏だけでなくオリジナル楽曲の作曲も始め(Xのために初めて作曲した楽曲「I’LL KILL YOU」は、1985年にXの1作目のシングルとしてリリースされている)、演奏のレパートリーを着実に増やしていった。

高校3年から音楽大学を目指して本格的にピアノに打ち込み、受験用のプログラムを通して、ソルフェージュ、和声、楽典などの音楽理論を学んだ

 

受験勉強の合間にはXとしていくつかのバンド・コンテストに出場。

 

ヤマハ主催のアマチュアのバンド・コンテスト『EastWest』の千葉県大会ではバンドとしての受賞こそ逃したものの、個人でベスト・ドラマー賞を受賞した

 

Toshlもまた、その後に参加したコンテストでベスト・ボーカル賞を受賞していた

 

ToshIと共に上京

 

バンドとしての可能性に自信を深め、大学に進学せず東京でバンドを続ける決意を固めたことをToshlに告げられ、これに呼応し音楽大学への推薦入学が決まっていた道を断つ決心

をした

高校を卒業すると、本格的にバンド活動を行うためにToshlと共に上京。

 

ライブ・ハウス時代には、Xが出演していたライブ・ハウス「神楽坂EXPLOSION」の店員がDoomのメンバーであった繋がりから、

Doomの初ライブでヘルパーとしてドラムを叩いている。

 

また、Xの活動と並行してLip CreamのNAOKI、ORANGEのACTとともにパンク・バンド「L・O・X」を結成して活動していた。

 

Xのレコードをリリースするため、1986年にインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。

 

1988年に同社よりリリースしたXの1作目のアルバム『Vanishing Vision』はオリコンの週間チャートで最高19位を記録し、インディーズ・レーベルの作品として日本のメジャー・チャートにランクインした初めてのアルバムとなった。

 

翌1989年にXの2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でCBSソニーからメジャー・デビュー。

 

年末には日本有線大賞の最優秀新人賞、

全日本有線放送大賞の最優秀新人賞、第4回日本ゴールドディスク大賞の最優秀新人賞などを受賞した。

 

X JAPANの1993年のアルバム『ART OF LIFE』からはバンドのプロデューサーも担っている

 

1991年の10月31日にTMNの小室哲哉とともに記者会見を開き、2人で新ユニット「V2」を結成することを発表。

 

12月5日に東京ベイNKホールでV2のコンサート『V2 SPECIAL LIVE VIRGINITY』を開催した。

 

同年、初のソロ名義作として、自身の選曲によるクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection』を12月12日に発表。

 

このアルバムは第6回日本ゴールドディスク大賞で洋楽アルバム賞(クラシック部門)を受賞した。

 

1992年にV2としてシングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース。

 

スポンサーリンク


LAへ拠点を移す

 

LAに自身のレコーディング・スタジオと自宅を購入し、制作と生活の拠点をアメリカに移した。

 

MIDIやシンクラヴィアなどコンピュータ・ベースの制作環境に関心を持ち、バンドの枠を超えたプロジェクト「Violet UK」を構想する

 

1992年7月23日に東芝EMIと初めてとなるソロ契約の締結を発表。

 

7月30日に日本武道館で『YOSHIKI TALK LIVE at 武道館』を開催

 

1993年にX JAPANの作品としてリリースされた自らの半生を描いた楽曲「ART OF LIFE」をピアノ協奏曲形式で初演した。

 

また、年末にNHKホールで行われた『第43回NHK紅白歌合戦』の全出場歌手で歌う合唱曲「TEARS〜大地を濡らして〜」を作詞・作曲し、会場のパイプオルガンで伴奏した。

「TEARS〜大地を濡らして〜」もまた、X JAPANのシングル「Tears」として

 

1993年にリメイクされた。東芝EMIからは、ビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティンとのジョイント・プロジェクトとして、

アルバム『Eternal Melody

シングル「Amethyst」が1993年にリリースされた。

ジョージ・マーティンは日本武道館での「ART OF LIFE」の演奏をビデオを観てプロデュース。

 

1993年にはTBS系で10月から放送されたドラマ『徹底的に愛は…』の主題歌としてNOAのシングル「今を抱きしめて」をプロデュース。

 

第36回日本レコード大賞で優秀賞を受賞した。

 

1994年にはクイーンのドラマーであるロジャー・テイラーとのコラボレーション・シングル「Foreign Sand」をリリース。

 

2人は国連UNESCOの呼びかけによりにより催された『GME ’94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』で共演した。

 

また、KISSのトリビュート・アルバム『トリビュート -KISS MY ASS-』に、ピアノ協奏曲にアレンジした「ブラック・ダイヤモンド」で参加した

 

同年にメジャー・レーベル「プラチナム・レコード」を設立し、GLAYをメジャー・デビューさせた。

 

同レーベルからは、1996年に自身2作目となるクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection II』もリリース。

 

1997年4月20日にボーカリストのToshlがX JAPANを脱退。

 

XJAPAN解散

 

同年9月22日に都ホテル東京で記者会見を開き、X JAPANの解散を発表した。

 

2000年に新たなボーカリストを加えた形で再結成することや、自身も日本やアメリカで音楽プロデューサーとして本格的に活動することを予定していた

 

hideちゃん‥

 

YOSHIKIさんは表舞台にはずっと上がらずにいました。。

 

転機…天皇陛下御即位十年

 

そんな中、『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』の奉祝曲の制作依頼を受け、1999年11月12日に皇居前広場で行われた式典で作曲したピアノ協奏曲「Anniversary」を演奏。

 

この時に受けた歓声が再起の契機となった

 

2000年6月にメジャー・レーベル「エクスタシー・ジャパン」の設立を発表。

Shiroや、BEAST、Revenusなど、レーベル所属のアーティストのデビューに携わった。

また1998年2月にロサンゼルスに設立したレーベル「エクスタシー・レコード・インターナショナル」に所属する、アバンダンド・プールズ、ローラ・ドーン、キドニーシーヴスらのアルバムをプロデュースした

 

Violet UKの制作も再開し、自ら出演し、演出も手がけたセブン-イレブン・ジャパンの企業イメージCFに「Confusion」「The Other Side」「Blind Dance」の3曲を使用した。Violet UKとしては1998年公開の映画『イン・ゴッズ・ハンズ』に楽曲「sane」を提供している。

 

2000年11月1日には、東京国際フォーラムで開催された松任谷由実のコンサート『Brothers & Sisters』にゲスト出演し、「翳りゆく部屋」をピアノで伴奏した。

 

2002年9月1日、お台場で行なわれたライブ・イベント『a-nation avex SUMMER FESTA 2002』のステージでglobeに加入することを発表(2005年にYOSHIKIを加えての活動の際の名称がglobe extremeになることが発表された)が、今のところ活動の実態は無く、小室流ジョークとも言われている。

同年12月に東京国際フォーラムで『YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK』を開催。

弦楽器に比重が置かれた16型編成のオーケストラを藤原いくろうとコンスタンチン・D・クリメッツが指揮したこのコンサートには、Violet UKからドーターとニコール・シャージンガーも参加し、ニコールは「I’ll Be Your Love」の英語バージョンを歌った。

 

愛・地球博 公式イメージソング手掛ける

 

「I’ll Be Your Love」は2005年日本国際博覧会「愛・地球博」の公式イメージ・ソングとして、YOSHIKIが抜擢したハワイ出身の歌手・DAHLIAが歌ったものがシングルとして2003年10月29日にリリースされた。

ニコールが歌う英語バージョンは、同年9月26日にリリースされた愛知万博の公式アルバム『「愛・地球博」presents GLOBAL HARMONY』に収録された

 

2003年2月1日に放送された、NHKのテレビ放送50周年記念番組『あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日』のエンディング・テーマとして、チョ・ソンモと島袋寛子が歌う「君だけだから」を作曲し、番組ではピアノで伴奏した。

 

2004年には宝塚歌劇花組公演『TAKARAZUKA舞夢!』で春野寿美礼が歌う「世界の終りの夜に」を作曲。

また、エイベックスを介して依頼を受けた韓国のロック・バンド「TRAX」の日本デビュー・シングル「Scorpio」をプロデュースした

2005年には愛知万博の開会式EXPOスーパーワールドオーケストラが演奏する「I’ll Be Your Love」のクラシック・アレンジバージョンを指揮した。事前にヘルベルト・フォン・カラヤンや、レナード・バーンスタイン、小澤征爾らのビデオを観てトレーニングを積んだ。

また、シェリー・バーグや川本統脩から本格的な指導を受けたほか、佐渡裕からもアドバイスを受けて指揮に臨んだ。

 

同年、2作目となるクラシック・アルバム『ETERNAL MELODY II』と『YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK』のライブDVDを2003年2月に専属契約を結んだコロムビアミュージックエンタテインメントからリリースした

 

2006年には、劇場長編アニメーション映画『ベルサイユのばら』の音楽を担当すると発表

 

同年8月5日にボルチモアで開催されたアニメ・コンベンション『オタコン2006』に特別ゲストとして招かれた

 

2007年には、5月25日と26日にロサンゼルスのウィルターン・シアターで『J-Rock Revolution Festival』を主宰。

 

S.K.I.N.結成

 

GACKT    SUGIZO   雅 とのロックバンド「S.K.I.N」結成。

 

同年6月にロングビーチで開催された『Anime Expo 2007』において、S.K.I.N.としての初めてのライブを行うと発表した

 

アメリカ映画の主題歌制作・音楽監督

 

また、2007年公開のアメリカ映画『カタコンベ』や『SAW4』の主題歌を制作した。

 

2008年公開のアメリカ映画『REPO!』の音楽総監督や製作総指揮を務めた。

 

『SAW4』の主題歌には、Toshlとの約8年ぶりの再会をきっかけに再結成に向けて動き出していたX JAPANの楽曲「I.V.」が使用された。

 

XJAPAN 再結成

 

2007年10月18日にX JAPANは公式ウェブサイトで再結成を発表した。

 

2008年には、日本テレビ開局55年記念ドラマ『東京大空襲』の主題歌として、秋川雅史が歌う「愛する人よ」を制作したほか黒澤明生誕100年祭『AK100 Project』の音楽プロデューサーを務めると発表した。

 

2009年には、日本テレビ系情報番組『ズームイン!!SUPER』の天気コーナーに「BLUE SKY HEAVEN」を提供した

 

2010年10月24日に、東京の赤坂BLITZでToshlのコンサート『Toshl LAST CONCERT”武士JAPAN”』をプロデュースしゲスト・ミュージシャンとしてピアノで参加した

 

2011年5月からアメリカの衛星ラジオ局「シリウスXM」のハード・ロック専門チャンネル「ザ・ボーンヤード」で『YOSHIKIラジオ』と題した音楽番組のホストを務め自身が影響受けた音楽やアニメなどの日本の大衆文化を紹介した

月1回の1時間番組で、1回目の5月27日のみ東部時間20時からが放送され、2回目となる6月5日から7回目の11月6日までは毎月第1日曜日の東部時間21時から放送された。

2010年10月10日に行われたX JAPANのニューヨーク公演を見て関心を持ったラジオ局の関係者が、新番組の依頼をしたことがきっかけとなった

 

ゴールデングローブ賞の公式テーマソング制作

 

2012年にはハリウッド外国人映画記者協会からゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソングの制作依頼を受け、制作した楽曲「ゴールデングローブのテーマ」が第69回ゴールデングローブ賞の授賞式から使用されている

同楽曲は2013年1月にiTunes Storeを通じて、ソロ名義では初めて全世界111ヶ国に配信された

 

同年8月27日には『Eternal Melody』と『ETERNAL MELODY II』の収録曲に、「ゴールデングローブのテーマ」とX JAPANのワールド・ツアーのオープニングで使用された新曲「Miracle」を加えたベスト・アルバム『YOSHIKI CLASSICAL』をリリースした

 

アルバムの発売を記念して、前日の26日にロサンゼルスのグラミー・ミュージアムで『An Evening with Yoshiki』と題されたショーケースを行い、その模様はニコニコ生放送とUstreamで生中継された

 

2014年2月19日にグラミー・ミュージアムでソロ公演を兼ねた記者会見を開き、ソロとしては初めてとなるワールド・ツアー『YOSHIKI CLASSICAL WORLD TOUR』を開催すると発表

 

ツアーでは4月25日のカリフォルニア州コスタメサを皮切りに、アメリカ、メキシコ、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、中国、タイ、台湾、日本を廻り

同年公開のアニメーション映画『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』の主題歌として制作した楽曲「Hero (Yoshiki Classical Version)」も披露した

グラミー・ミュージアムでは会見当日から、アジアのアーティストとしては初めて愛用のピアノやステージ衣装などが展示された

 

2014年3月14日には、テキサス州オースティンで開催された音楽コンベンション『SXSW』に出演

イベント終了後に行われたアフター・パーティでは会場にピアノを2台設置して、自身のホログラムとの連弾を披露した

同年7月4日、毎年パリで開催されている日本の大衆文化を紹介するコンベンション『Japan Expo 2007』に参加し、ソロ・コンサートを開催

途中、ゲストにイラストレーターの岩元辰郎を迎え入れ、ピアノ演奏と絵画の即興のコラボレーションを披露した

同年8月15日、16日にグランドハイアット東京にて自身初となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI IN TOKYO 2014」を開催

 

同年10月29日にロサンゼルス現代美術館のザ・ゲフィン・コンテポラリーで行われた、サンリオのキャラクター「ハローキティ」のコンベンション『Hello Kitty Con 2014』に出演

会場の特設ステージで、ハローキティのデザイナーである山口裕子から依頼を受けて制作したハローキティの公式テーマ・ソング「HELLO HELLO」(仮タイトル)を初披露した

スポンサーリンク


2015年3月11日に、バラエティ番組『中居正広のミになる図書館』でのX JAPANに関わる内容が放送された回について、「たまたま見てしまいました。

真実と異なる事や、編集等、色々と思う事があり、少し傷つきました」と発言し、さらに「今ファンのみんなをがっかりさせないように世界に向かって命がけで頑張っています」との意思表明を示した。

 

同年5月30日、31日に開催されたGLAYの東京ドーム公演『20th Anniversary Final GLAY in TOKYO DOME 2015 Miracle Music Hunt Forever』の2日目にスペシャル・ゲストとして登場し1994年にプロデュースしたGLAYのメジャー・デビュー曲「RAIN 」で共演した。

同年8月14日、15日にグランドハイアット東京にて2年目となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI IN TOKYO JAPAN 2015」を開催。

追加公演の「BREAKFAST(LUNCH)WITH YOSHIKI IN TOKYO JAPAN 2015」を合わせ2日間で計3公演を開催

 

 

2016年8月30日、31日にザ・リッツ・カールトン大阪、9月2日、3日にグランドハイアット東京にて3年目となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI 2016 IN OSAKA & TOKYO JAPAN」を開催。

(※BREAKFAST SHOW含む全5公演。)大阪では初開催[97]

 

同年10月12日、世界初となったキッス(KISS)のオフィシャル展覧会「KISS EXPO TOKYO 2016 ~地獄の博覧会~」に来場。

一般への公開日前日に訪れたYOSHIKIを、ジーン・シモンズ自らがエスコートした

 

首の頸椎の人工椎間板の置換の緊急手術

2017年5月10日、自身のホームページで、頚椎椎間孔狭窄症による首の頸椎の人工椎間板の置換の緊急手術を行うことを公表した。同年5月16日、ロサンゼルスのシーダースサイナイ病院(英語版)にて緊急手術が行われ、手術は無事に成功した

 

同年8月26日、27日の名古屋マリオットアソシアホテルでの公演を皮切りに、29日、30日にザ・リッツ・カールトン大阪、9月1日、2日にグランドハイアット東京にて4年目となるディナーショー「EVENING WITH YOSHIKI 2017 IN NAGOYA & OSAKA & TOKYO JAPAN」を開催。

(※BREAKFAST SHOW含む全7公演。)名古屋では初開催となった。